散歩みち
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2008年12月2日(火) 人間の究極の理論
誰がどんな宗教を信じようとも、
人間の究極の理論は世の中のために熱いハートを持つ事だ。
それができれば困れば困る中、例え生き恥をかいても生き抜けば、
フェニックスとなって
自分にある心の底の気持ちがストレートに自分で理解できかつ表現でき
自分の五感から生まれる心の底の気持ちと向き合って真摯に生きれる。
私の中で自分の考えと自分の五感と自分の心の底とで整合がとれる。
整合がとれるから自分の直感が心の底から働く。
結局自分のためになるものだと私は感じている。
2008年12月3日(水) 何が何でも生き延びる技術
私が思うに自分でも実践できる考え方は何かという事にいきつく。
つまり何を考えたら私は実践できるか実現できるかという所から
結局自分が窮地においやられて
本当につまらない些細な事から実践していくしかなくなっていく。
自分の中で小さな事を積み重ねていこうとする。
それで自分の中の小さな宇宙(希望が持てる世界)ができたとき
その小さな宇宙(希望が持てる世界)が膨張していく
それが何が何でも生き延びる技術なんじゃあないのかと私は感じている。
またそんな経験から自分が何かができる事の重要性を実感している。
2008年12月9日(火) 「好き」だけの非生産的な話
「好き」いわれるだけでは私が何か生産的な事はできない。
ましてや「好き」や「嫌い」だけで世の中が語れるほど私には単純には思えない。
どうしたら我々人間が生産的になれるのか
男も女も真剣に考える必要がありそうである。
我々の生活に生産的な活動ができなければ
男も女もただの幻想をいだいているにしか私には思えない。
「好き」や「嫌い」が妄想にならないために
日常生活に生産的な活動が必要なのだと私は思う。
2008年12月10日(水) 「好き」だけの大事に思えない話
「好き」や「嫌い」だけで誰が大事にしたいと思うだろうか。
私には大事に思えないつまらない話にしか聞こえない。
本人がどれだけ大事にしたい部分を持てるか考えるほうが
本人や他人が「好き」や「嫌い」だけを繰り返すより、
私が理解できれば、よっぽど共鳴できると思う。
他人がそんなに「好き」や「嫌い」だけで共鳴できるなんて
私は理解できずストレスたまる一方だ。
結局私は「好き」や「嫌い」だけでは共鳴できない。
2008年12月14日(日) 近況
先週の土日に富士山をデジカメで撮影した。
12月になって東芝テック三島事業所で
RFIDを使った重要書類管理システムのテストを実施している。
9000項目のテストがあるらしいが
私の仕事は12月と1月だけでこの仕事を終わらせる計画である。
結構集中するので週末疲れがたまる。
だから土日ぐらいリフレッシュしたい。
気分転換できるように平日と異なる何かが必要かもしれない。
2008年12月17日(水) おしとやかに丁寧を重ねるために
私がおしとやかに丁寧を重ねるには
自分のやる事をやっていくしか考えられない。
自分がやる事をやるのに
どうしても邪魔になれば
迷惑な邪魔なものを選択して踏み倒していくしかない。
それは私がおしとやかで丁寧を重ねられる自分の防衛策である。
つまりお互いやる事やんなきゃ、
おしとやかで丁寧を重ねられない。
おしとやかで丁寧はやるべき事をやると両立すべき
必要不可欠なものだと私は思う。
2008年12月19日(金) 市場のニーズと教育の質
基礎研究しても何が役に立つかなんてわからない中で研究しているのが実情だが
それなりの賞をもらう時、
自分の達成感だけでは賞をもらう気にならないじゃあないかと思う。
過去の人や他人へのつながり、世の中へのつながり、研究内容の歴史へのつながり、
そういうものが自分の業績として意識できなければ
自分が賞をもらおうと思えないそんな気がする。
だから、今の所、何が役に立つかわからなくて仕事をしても
最終的に自分の業績が役に立ってる指標として市場のニーズに照らし合わせても
全然おかしくない気がする。
もし今の所、市場のニーズと教育の質に相関がないなら
市場のニーズも教育の質も成熟していない。
我々が知らない知識が埋もれているそんな気が私にはする。
どうせ市場のニーズにはみんな正直だから、なおさら
市場のニーズと教育の質に相関がない事に不思議に思い
何かがある気がするのだ。
2008年12月21日(日) 労働について
私自身は自分の労働が自己の利益の追求というより
労働する目的ための奉仕という意味合いの方が比重が重い。
だから何のために労働するのか把握しないと
どのような労働がベストか判断できない。
また与えられた情報では
何がベストか判断できないこともある。
だから自分の状況を説明して指示を得る機会が必要になる。
結局、
労働する目的の追求が自己の利益の追求と別次元で労働している感覚がある。
だから私が働いている会社がどのように評価しているか
私が労働に関して自己の利益を追求すると気になるのである。
2008年12月25日(木) 勉強の利得について
私の大学浪人時代の英語の偏差値は50を下回っていた。
幻聴のため英単語を覚える気力がなかった。
結局、暗記できずセンター試験も全国平均点ぐらいで現役より20点ぐらい下がり
数学と物理で大学に入学した。
そんな私が大学時代に言い聞かせたことは
偏差値50あればチャンスがあるという事だった。
他人がそんな高い偏差値を持ててもそこにたいした意味なんてなく
偏差値50もあればチャンスはみんな同じだそう思ったのである。
自分が何かを発想できる力は
様々な経験と
基礎知識として偏差値50で勉強し続ける先に見えるものだと
私は信じて疑わない。
もう一度繰り返す。私の英語力は偏差値50以下である。
偏差値50以上の他人が私と何か違うことができると私には思えない。
どうせどんぐりの背比べである。
そんな事より
偏差値50ぐらいの人がチャンスがあると思える事の方が大切である。
発想なんて勉強だけではできない。
様々な経験をしないと無理である。
だから偏差値50で耐え抜いてあきらめないために勉強の利得とは何かを純粋に
おのおの個人が真剣に考える必要があると私は思う。
私自身、どう勉強すればいいか今も試行錯誤の連続である。
2008年12月27日(土) 今日の午後から冬休みに入る。
今日は午前中だけ勤務して今年の仕事を終了した。
冬休みは
2冊のプログラムの本を読みたい。
ドラムの練習をしたい。
データベースの試験勉強をしたい。
と計画を立てる。
なかなか気分転換して来年をむかえるのも難儀である。
一週間のうちで一つか二つほどのイベントで
新年の門出を祝えたらいいかもしれない。
それにしても
私自身、過去のリソースを使い果たし
今年一年いろいろ頑張ったような気がする。
未来のリソースに向けて、なんとか来年も良い年にしたい。
2008年12月31日(水) お正月の計画
正月に
書初(質実剛健、なんどきもやるべき事をやるだけよあとは野となり山となるかな)、
読初(「ノルウェイの森」村上春樹)、
初写真(初日の出)、
弾初(ドラム)、
初詣(三島大社)、
を計画している。
全部うまくいくと思っていないけれど
良い年になるよう
正月気分を味わえればいいなあと思っている。