散歩みち

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2009年1月1日(木) 知とは何かを知る機会を増やす必要性


勉強に従事して、または仕事に従事して、または研究に従事して、
科学とは何か、自分と他人の愛は何か、社会は何かという事を
多くの人が知る機会を増やす必要がある。

それには何かに従事して自分で見つけ出そうとする行動が大切なのである。
この世にそういった機会が増える事を願ってやまない。

この私が願う事は
知りたいものを求めて自分自身で発見し知る機会が多くの人におとずれる事である。
本当に知るとはどういう事なのか多くの人が経験すれば
それが将来の科学のため、将来の人々のため、将来の社会のためになると信じている。

2009年1月1日(木) 今年の初写真


初日の出を写真で撮影した。
電線が写ったのが少し残念だった。
けれど天気が晴れて初日の出が見れて
はればれとした気持ちになれて良かったと思った。



新年早々メジロを撮影できた。
拡大を重ねたので少しぼやけている。
だから縮小して表示する事にする。
それにしても新年早々良い事があった気がする。
ありがたやメジロちゃん。


2009年1月2日(金) 1月2日の写真


今日は午前中書初めをし撮影した。
ついでに庭に咲いているスイセンとロウバイを撮影した。
父親に嗅いでみろと言われ嗅いでみたらいい匂いがした。

順調に正月のイベントを消化している。
だからと言って正月気分なのかよくわからない。
気分一新それが正月のテーマだとしたら少しわかるような気がする程度である。


2009年1月3日(土) 「ノルウェイの森(著)村上春樹」


人間の内面と人間の体のバランスがとれない苦悩を感じた。
様々な登場人物の中でもそれを感じた。

自分と他人とに心と心の衝突と調和がなければ
いつまでたっても、体と内面のバランスはおとずれず
幸せにならないのではないかと思った。

その意味で自分と他人との心と心の衝突と調和は
心の底まで喜怒哀楽をともにできる人間の本質にかかわる
重要な要素なんだと思った。

2009年1月11日(日) メジロと御対面


今日部屋で本を読んでいたら窓にメジロがぶつかって
メジロがベランダで弱っていた。

しばらく私と母の手で休んでいた。
母の手でフンまでして元気を取り戻して飛んでいったけれど
もともと弱っていたんじゃあないかとかその後地面にメジロが長い間いたとか
大丈夫かしらと思った。でもメジロの写真はとれたし
自分の手にメジロがいるのも悪い気がしなかった。


2009年1月12日(月) 「海辺のカフカ (著)村上春樹」


話としては不思議な物語のように感じた。
主人公の田村カフカより
淡々と自分の役割をこなす。
ナカタさんとホシノさんの方が好感を持てた。

結局田村カフカは東京から家出をして
自分が背負うものを見つけて東京に戻る。
そのためにナカタさんとホシノさんは
物語上の任務を淡々と遂行する。

私の価値観では自分が背負うものを見つけるより
自分の出来ることを淡々とこなす方が好きだと思った。
それぐらい私が背負うものが過去にあったからかもしれない。

2009年1月15日(木) 私は日本人が大キライ


なぜかというとエライ人や賢い人がエライ事や賢い事をしないからである。
さらに、他人の教育環境を知らないで自分はエライとか賢いとか思っている所が
気にくわないのである。

日本の世の中が公平な教育だと思えない以上、
エライ人や賢い人はなおさら、エライ事や賢い事をしなきゃあいけないのに
お粗末な日本にうんざりしている。

すっきりした気分で何かをするそんな心境には程遠い。
私はもっと見晴らしのよい場所で生活したい。
それはエライ事や賢い事をぬきにした生活である。
ところが日本にいるとエライ事や賢い事から逃れられないのである。
公平さのかけた日本と日本のエライ人や賢い人のせいである。

今のところ私も日本人だから、しょうがなくつきあっている。

2009年1月18日(日) 「ねじまき鳥クロニクル (著)村上春樹」


この小説は三部作であり
主人公のオカダ・トオルが妻のクミコとの破局に直面し
登場人物とのかかわりあいを通じて格闘する
空想上のアドベンチャー小説となっていた。

破局に直面した直接の原因も空想上のもののような気がした。
主人公が妻のために冒険していく。
その冒険は登場人物の人生経験を参考にして展開される。
そして一つの結末を向かえるそんな小説だった。

2009年1月19日(月) 他人と自分の幸せ


今まで(2009/1/19)この世の中がゆがんでいるようにしかみえなかった。
結局自分の幸せを考えたら自分でどうにかするしかなかった。

だから、ただ待っていれば幸せになる気がしない。
自分でいろいろな経験をしなきゃあわからない事もあるように思う。

科学というものを少し知って
現在も用いられる何割か正しい真実という古い理論を考えれば
過去も現在も未来も肯定できる気がした。

過去も現在も未来も肯定できるくらいの幸せをつかむ域に達するには
この世の中で待っててやってくるだろうか?
私には今のところ(2009/1/19)そんな世の中に見えない。
結局自分の頭で自分の幸せを実現するしかないように思える。

なぜなら今まで(2009/1/19)私自身が自分の中の真実を主張し続けたからである。
それは私の幸せのためではあるが、他人の幸せになるのかは自信がない。
だから私にはただ待っていれば幸せになる根拠がみいだせない。

2009年1月20日(火) 実現可能性を広げる教育の公平さ


ただ勉強しろと言っても勉強するかしらと私は思う。
勉強するには実現したい大義名分が必要だと思う。

私が高校生時代はエネルギー問題を解決したかった。
大学生時代は自分の大学浪人時代に考えたエネルギーの問題から派生して
物理の根本的な見直しが必要な気がした問題と
高度な数学に難易度を感じコンピュータを使った研究を求めた。

こんな感じで大学で何をしたいかという大義名分がないから
勉強しないのではないかテスト勉強する問題以前のような気がする。
自分が何を実現したいかそういう大義名分が必要な気がする。

だから私には個人の実現可能性を広げる教育現場が
公平に与えられるべきだと私はそう思う。

2009年1月24日(土) 私の性格


私の基本線は大胆に真正面からぶつかってチャレンジするが
そのチャレンジに実現性があるか問うことが多い。

理想や現実も大事だが実現性も大事な部分である。

なので私は実現不可能と思ったら理想も現実も捨ててしまう人間なのである。
また他人の実現性はわからないが私の実現性は嗅覚で行動できる。
だから私はリーダーシップというものがあまり好きではない。
そういう意味では技術者の部類に入るのかもしれない。

そんな自分を好きではない人もいる気がする。
だって理想もしくは現実の方が大切だと思う人が世の中にたくさんいるからである。
そんな理想もしくは現実が大切な人に
今現在の論理的もしくは合理的コンセンサスを求めても難しいようである。

また私は実現性に神経質でもある。
確実に実現するまで石橋をたたいて渡ろうとする傾向がある。
嗅覚で正しいと思っても、他人に対し断定しないし説得もしない。

私が実現しないと感じるものは説明のしようがない。
また自分のやる事がすべて実現するとは思ってない。
結局、我が実現性の嗅覚は毎日の生活によって実現に近づくと思える程度である。

このように真剣に私の実現性を考えると、どことなく頼りなくなってしまうのである。

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Akiary v.0.61