散歩みち

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2008年11月1日(土) 希求する世界


好きな人が愛らしく、いとしくなれるような世界に
なってくれないかと思う。

競争より、創造性あふれる、または豊かさが満ちあふれる
そんな生産性のある愛がより良い世の中に
なっていくんじゃあないかと私は思う。

2008年11月5日(水) 人前にでて話すテクニック


私は何回やっても慣れない。
けれど最後は今のところ自分が考える自分なりの結論を言って
例えば挨拶として「ありがとうございました。」と
みんなに終わった感じを持たせる事が大切なようである。

要はどうやって最後をしめくくれるか
あいまいにせず明快に最後をしめくくらないといけないらしい。
自分の個人的な意見としてふまえつつ
最後は総括できるテクニックが求められるらしい。

そうするとなんとなく出席して良かったと思える。
私は優柔不断ですぐ結論に持っていこうとしないので
司会に向かなかったらしい。他人の名司会を見ているうちに
自分なりに最後をまとめるそんな勇気が必要な事に気がついた。
だから最後をまとめて素直に納得するような司会こそ名司会なんだと
私なりに解釈している。

2008年11月8日(土) 類は友を呼ぶ


「この世界の真摯な現実感、精神の豊かさ、何かに取り組む緊張感」
私の好きな人にあるような気がするものである。
ひょっとしたら私にもあるのかもしれない。

そんな「この世界の真摯な現実感、精神の豊かさ、何かに取り組む緊張感」のある所が
永遠に私なりにこたえつづけたいそんな気持ちになるのである。

なんとなく類は友を呼ぶ気になる。私が普通に振舞えば、何となくそんな他人の
「この世界の真摯な現実感、精神の豊かさ、何かに取り組む緊張感」が
伝わる気がするからである。だから逆もあるのかもしれない。

2008年11月9日(日) スポーツの出来事


小学校低学年の頃、放課後サッカーして遊んでいた。
私はキーパーをまかされた。誰かがシュートした時
周りの景色はボーッとしてボールだけがスライドショーのように
ある時のこまぎれとなってボールが見えた。

だから王元監督の言う事は私は信じている。
私の見たボールより小さくしかも速い。だから神わざだと思う。
イチロー選手だってそんな事はないと言う。
けれど私が体験した事は直感でありうると考える。
今までこんな私の直感が働く所が私の長所かもしれないと思っている。

2008年11月10日(月) スポーツの経験


青年期にかけて私の体は思うように動かなかったが
私にとってスポーツほど自分の考えた事を実践できる良い経験となった。
だからスポーツで何を実現したいか考える事は大切な要素である。

結局、私の五感はスポーツの経験で養われたといって過言ではない気がする。

その他には
スポーツで自分の考える事がうまくいくと思う直感や
スポーツにおいても考えて行動する意義は私の原点のような気がしている。

2008年11月11日(火) リアルな現象


私が学生時代に何に興味を持てるかという問いに出てきたものが
リアルな現象である。

けれど大学では偽と真の区別が私の中で判断しづらくなってしまった。
つまり物理そのものに対して疑惑を持ってしまった。
大学を出てからは物理現象そのものより
物理とは何かという事を整理し考えるようになった。

今に至っては、私が行動できるリアルな現象
つまり仕事上の現象の方が私にとってリアルな問題になっている。

2008年11月12日(水) 霊能力とか超能力について


ある科学者にすれば霊能力とか超能力が
ある科学者のダークマターと同じものだとすれば

話がわかりやすくなるのではないでしょうかと私は思う。
要は霊能力とか超能力が
今か将来かはさておき、論理的かつ合理的に判断出来るとギリシャ人のように
考える事ができるかという所が
我々人類にとって可能性のわかれ目だと思う。

我々は世の中を論理的かつ合理的に説明出来るという野心が
世間の成功者としての必要十分条件だと認識が持てた時
その成功は過去から現在そして未来への扉となると私は思う。

2008年11月14日(金) 教師の理解できない所


たくましい健やかな子供たちが
教師の素直じゃないヒネクレタ考えを聞いて
子供たちは論理的かつ合理的なコンセンサスを持てるのか不安である。

やっぱり子供たちは最も先生に影響されやすい。
私ただ一人抵抗しても子供たちは先生の味方になるだろう。

それこそ私の中学生時代の再現である。
ある人は理想に燃える。
ある人は現実的になる。
ある人は自分の損得考えれば自分の先生の言うことに従った方が得という事もある。
ある人は理論的に正しいとか間違っているとかより
自分のおかれた状況は個々で違うため、それぞれ打算がはたらく。
結果的に理論なんかどうでもよくなる。
だから私だけでは、子供たちの論理的かつ合理的なコンセンサスを得るのは難しい。

けれど世の中、ある対象に対して
他人と自分が論理的かつ合理的なコンセンサスを持つ事は大切なはずである。
だからこそ私の学生時代を振り返ると教育に不安を覚えるのである。

2008年11月16日(日) 学生時代


試験勉強はしたが
私自身そんなエリートみたいに勉強はしていない。
だけど私なりに悩みはかかえていた。
どうしたら強制されず自由な環境で勉強できるかという問題である。
高校時代、大学時代、大学院修士生時代、
悩みながら遊びまたは勉強をした。

高校時代は大人が読む小説をよく読んだ。
私はどうしたら女性と私が幸せになるんだろうとまた小説を読んで悩んだ。
そのような悩みをかかえながら友達と遊び、ストレスの発散となった。

今思えば、悩みも勉強も遊びも私の学生時代には必要だった。
「おおいに悩み、おおいに勉強し、おおいに遊ぶ。」
許容範囲いっぱいの中でどれ一つも欠けてはいけない。

今になっては、それが私の人生のあたり前な現象なのである。

2008年11月17日(月) 大学院修士生時代


この時代は私が最もよく論理的に考える事ができた時代である。
ただ私の体は落ち着きがなく他人の話を理解するにはなぜか時間が必要だった。
だからよくストレスがたまった。それでカラオケで思いっきり歌って発散した。

私の体が安定しないのに理解力もないのに
なんとか修了できた。なんとなく物理が私に向いてたからのような気はしている。

結果的に論理的に考える事ができた事は私にとって大きな意義だったように思う。
確信はないが、経験値として
なんとなく論理的に考える思考回路のようなものができた。

だから2年間だけだけれど
私には貴重な経験をさしてもらったと思う。

エリートって論理的思考回路の経験が
たくさんあるって事なんじゃあないかと思っている。

2008年11月17日(月) 世代の知性の総量と個人の知性の総量


私は個人の知性の総量は変わらないけど
世代の知性の総量は増加している気がするんですけど
気のせいなのかな?自分の専門分野で新たな発見とかないのかな?
古い理論だって今もってそれなりの価値はあるし
新しいパソコンのように時代は進んでいると私は思うんですが
ましてや古いパソコンだって壊れなきゃ役に立つし
新しいパソコンや古いパソコンだってそれぞれ理論的構造を持っている。

「世代の知性の総量が変わらない。それが向かう先が変わるだけである。」
本当かしら私にはそう思えない。
われわれ人間には過去も現在も未来も必要不可欠な存在だと私はそう思う。

2008年11月18日(火) 絵心


子供の頃は変な絵を描く事が好きだったように思う。
現時点ではデジカメを手に入れても
何をうつせばいいのか発想が浮かばない。

子供の頃の方が好奇心旺盛だった気になって、
それだけ周辺に対して自分の興味が薄れているという事になり。
結局、子供の頃の方が幸せだったんじゃあないのかと思ってしまう。

子供みたいな自由な発想ができないのは悲しい所であるが、
いくらかの抵抗を示せるのか自信はないけれど、
いろいろな花をうつすとか、
テーマを考える大人の戦略が必要なようである。

それにしても、ここの所夢なんか記憶にないし
最近なんか印象に残るようなシーンって無いに等しいのよねえ。
テレビを見る集中力が続かないのも関係しているかしら。

2008年11月19日(水) 音楽


メトロノームに合わせて楽譜どうりに演奏したい。
私の当面の課題である。
ドラムをたたくとドラムの音でメトロノームが聞こえない。
目で見ながらならたたけるけど邪道のような気がする。

こんなに苦労するなら子供の時にやっていれば
良かったなと思ったりするが過ぎたものは仕方ない。

私の中で
子供の頃私が音楽をやっていれば
繊細な子供になれたんではないかという幻想みたいなものがあるのだが

物理やって大人になっても自分が繊細になれた気がしないので
たぶん私の誤解であろうと判断するけれど
それだけに私の子供時代はパワフルだったのかもしれない。

つまり私がいだく幻想は
落ち着いて何かに取り組む繊細さをもたらすかもしれない。
けれど取り組む時は良いのだが
私がひまになると冷静さが失われるのは困ってしまう。
結局、心のゆとりがない自分に気づいている。全く困ったものだ。

2008年11月19日(水) 過去と現在と未来


いろいろな形で
個人の知性の総量が限られても、おのおの個人が
他人に対して節度を持って
他人と異なる方向性でも構わないから
過去の知識を参考にし
現在の状況を分析し
未来に希望を持って前進させるために
チャレンジする機会が必要である。
なぜなら何かしらチャレンジしなければ
人間は何も創造できないからである。

だから我々人間には
成功と失敗を繰り返しながら世代交代を繰り返しながら
そういう過去と現在と未来が必要不可欠な存在だと思う。

2008年11月24日(月) 私が不思議に思う事


毎日私が入浴する間際になると
「好き。面白い。美しい。」だけが聞こえてくる。

このワンフレーズだけですべての世の中が語れるように
私には到底思えない。
こんなワンフレーズだけで論理的な思考が出来るとは到底思えない。

私が今まで生きてきて
こんな簡単な自然でも世の中でもないと私は思うのだが
なんか世の中そんなにイカレテいるのかしら。
もっと自然に普通に堂々と生きていけるそんな世の中を私は望むのだが
私の身に起きている事は自然に普通に堂々と生きていけない不幸な人達が
問題意識を持っているだけに過ぎないのではないかと私は思う。

こんな自然に普通に堂々と生きている事が
何か問題があると感じるとしたら
それはあなたに問題があるだけなのではないかと思う。
私が不思議に思う事はそんなに世の中イカレテいるかしら。
「好き。面白い。美しい。」だけが不思議に思えて仕方ない。

2008年11月26日(水) 幸せによるポジティブな創造力


我々人間に必要なものは
「幸せによるポジティブな創造力だ。」
どうも世の中を勘違いしている気がしてならない。

幸せがあるからこそポジティブに創造できるのだ。
それに反する事なんて不幸でつまらない事だと認識すべきなのである。

幸せとポジティブなチャレンジと創造力は(幸せ⇔ポジティブなチャレンジ⇔創造力)
お互い相互作用を及ぼしているのである。

けれど私には
このサイクルを実感できる世の中にする必要があると思うが
他人に教える自信があまりない。他人の発言を聞いていて、
他人の世界が違いすぎて私が言っても理解してもらえない気がするからだ。

だけど私の中では確実にこのサイクルは(幸せ⇔ポジティブなチャレンジ⇔創造力)
成立している。

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