散歩みち

バックナンバー

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

2009年6月2日(火) 理論と実験のバランス


理論と実験のバランスの時代なのではないか?それは
理想と現実のバランスあるいは
ボトムアップとトップダウンのバランスあるいは
左派と右派のバランスが
他人を大事にしたいと思えて
シンプルで純真な心を持ちうる個人の自由が生まれるポイントのような気がする。
私自身極端な世界にいたから両極端な世界における個人の居心地の悪さを知っている。

他人を大事にしたいと思えて建設的で創造性あふれたシンプルで純真な心を持ちうる
個人の自由が生まれるには
どうすべきか知恵をしぼって考える必要がありそうである。

2009年6月5日(金) シンプルな気持ちを取捨選択し組み立てる


シンプルな気持ちを取捨選択し組み立てて運転できる方が
生身に素直な面により気持ちに耐久性がある。
だから生身の体から発するシンプルな気持ちをいかに取捨選択し組み立てられるか
状況が悪いほどせまられる。

同時に生身の体から発するシンプルな気持ちは
他人と気持ちを共有できる部分でもある。

だから他人の生身の体から発するシンプルな気持ちを私自身簡単に否定できない。
もし簡単に否定すれば結果的に誰からも気持ちを共有できないだろう。

以上もってシンプルな気持ちの重要性を知らない人の話は聞かない方が良い。
我々人間にはシンプルな気持ちを取捨選択し組み立てて運転する事が
大事だからである。

2009年6月7日(日) 1Q84 (著)村上春樹


手を握った思い出しかない
小学生時代の同級生だった青豆と天吾が
三十歳ぐらいをむかえる1984年を舞台に
再会もせずお互いひそかに恋心を持ちながら
物語上にあるお互いの問題を物語上間接的に共有する。

そんな事が我々の世界で起こるだろうか?
不思議な気持ちになる。
私のする事が誰かに影響しているかもしれない。けれど
今の所私にはどのように影響を与えているのか全くわからない。
つまり私のする事に対してこの世界は無反応なのである。
これから私の人生で(2009/06)そんな現象が起こるのか半信半疑である。

2009年6月9日(火) 今日の昼食


午前中診察日だった。
いつものように昼食を母とともにしたわけだが
蕎麦屋でまずい天ぷら定食を食った。
京都でまずい餃子を食ったのを思い出した。

これほどお互い不幸な話はないなと感じた。
おそらく文化功労者だろうと思われる店の人はにこにこしていた。
なぜなんだろうと不思議な気持ちになった。
世の中には不思議な事がいっぱいあるものだとあらためて感じた。

2009年6月16日(火) 愛について確信を得るまで話し合う。


結局私と相手が女神と大天使ミカエルになるまで
時に徹底的に時に冷静に時に熱く、愛について確信を得るまで話し合うしか
方法がないのではないかと思う。
私と相手がそこまで話し合えれるかという所が
将来に女神と大天使ミカエルになれるかの分水嶺な気がする。

私はとことんまで真剣に話が出来て
自分の気持ちをしっかり話せる人を求めている。
そんな会話さえ物理をやるような会話がしたい。
物理やっているのか愛について考えているのかわからないぐらい
考えるしか私が出来る事は他にない気がする。

人間結局やる事やっていかないと幸せはない。
誰かのせいで世の中が良くなるはずだと考えるより
自分が世の中を良くすると思わなければ幸せにならない。
つまり自分の可能性のパイの一つを示す必要がある。

つまり愛についても同じである。
個々のカップルで自分の可能性のパイの一つを示すしか
幸せにはなれないと思う。

2009年6月18日(木) 自由から生じるもの


私個人的には政治に期待しても仕方ないのではないかとそう思う。
限られた現在の資産を運用するのがせいぜいで
先のわからない未来の資産まで運用はできない。
結局の所、国民感情として我々が期待すべき事は
我々の生活にある程度の自由を持って
今ある資産を未来の資産につなげれる機会を持つことである。

つまり誰かが今ある資産を未来の資産につなげられなければ
ただの無駄な浪費にさえなってしまう。
だから可能性のパイの一つとして誰かが未来の資産につなげるために、
我々国民がある程度の自由な機会を希求すべきである。
結局、現在の資産だけを考えるのは国民感情としてナンセンスである。
未来の資産の創造こそ大事である。

2009年6月19日(金) 今の所めぐまれない私


今の現状に私自身満足していない。
今までいろんな事をしたけれど
すべて今の現状に反映されていない。
だから自分のした事がどれだけ影響を与えたのか
全く理解していない。

自分がやる事やる一方で今の現状に反映されないのだから
不安に感じるのも無理が無いのではないかと思う。
だから結局今の状態に満足しないのである。
自分がやった事ぐらい現時点で評価できないものかと思うのだが
それが私の現実なのだからしょうがない。
みんな私のする事を無視したいらしい。
だから薄気味悪い嫌な感じはどうしようもないのである。

2009年6月21日(日) 政治を運転して目指す目的地と自由


目的は政治家だけの問題ではない。我々だって常に漠然と抱えている問題である。
目的は解決しないかもしれないし、突然解決するかもしれない。
だけど常日頃、自由な漠然とした思いを何らかの形にしようとする力が必要である。
そのためにはどんな世の中にしたいか、つまり目的地を考えることは重要である。

目的地があれば自由な漠然とした思いがある程度集約するからである。
結局、いろいろ目的地を変更しながら自分のやりたい自分の指針を得ることができる。
我々には自由な発想でそういう様々な目的地を最低限政治に求めても良いと思う。

なぜなら自由とそういう様々な目的地が我々に潜在力を与えると思うからだ。

2009年6月24日(水) 近況


テスト技術者の社内試験を今月受けたがまだ結果がわからない。
合否によって本試験が受けれるか決まる。
結果がどうであれテスト技術の吸収が出来ているかなと思う。
先週は基本取引契約書の入力作業も行った。
入力作業後の先週と今週はエンタープライズアプリケーション用の本を
2冊読んでいる途中である。
まだまだプログラム技術を吸収するのに時間が必要である。
仕事以外では
先週は「イエスの古文書(上、下)」を読み、
今週は「イエスの涙」を読んでいる途中である。
英語、俳句、短歌も少しずつやっている。
まあ何事も努力のたまものであるが英語だけは私自身どうなるのかわからない。
駅で外人に何回か話しかけられて、
どうにかしようと思いたった事がきっかけで続けているが
今の所、ライティングとヒアリングを主にやっている。
そろそろ語彙も増やす必要もありそうなのだが、なかなか先が見えない。
繰り返しても達成感はあるけど上達しているのかわからない所が難儀である。

2009年6月25日(木) 難儀な英語


勉強して文法問題が出来たとしよう。その後忘れる。結局いつもの自分に戻る。
結局これではいけない。
勉強しなくても出来る日本語と同じく。
勉強しなくても出来る英語にしなくてはいけない。
ある目的を持った急いで詰め込む勉強じゃなくて
何気ない日常にありふれた普段通りの勉強が私には必要である。

つまり私の場合日本語を使う機会と同じような、
りきまない何気ない英語の勉強方法が私には必要なのである。

だから今の所英語を必要としていない私にって
ありふれた日常の中で英語が存在する事が大事なので
それはそれで私にとって難儀なのである。

2009年6月29日(月) 小説をすすめられて困る私


結局小説を読んで自分の生き方と照らし合わせて考えるだけである。
みんながどうしたら良いとかなんて答えは無い。
自分の身に置き換えるだけである。

だから小説で個別に価値観の違う他人の考える事とは異なる。
小説で他人の気持ちがわかる気もしない。
なぜなら、世間の他人もケースバイケースだからである。

ケースバイケースの他人がいる世の中でいろいろな小説を比べるのも
ナンセンスである。

自分の立場を持てない小説読んでも結局他人にふりまわされるだけである。
結局小説の焦点は他人ではなく自分である。

2009年6月29日(月) お疲れ気味の月曜日


何か技術本やら英語本やら小説やら読んでたら
この所疲れがたまり集中力がなくなってきた。

金曜日明らかに集中力が欠けたので
土日ゆっくり休んだつもりなのだが
逆にそれがいけなかったのだろうか難儀な貧乏性である。

あんまり、やり過ぎず、あんまり、やらなさ過ぎずという所か
毎日英文法書を何遍も見ながら過ごそうかと計画中。
英文法書を覚えるのではなく何遍も見る習慣を持つ予定でいる。
私の関心がある五文型の動詞と動名詞の動詞と不定詞の動詞をコピーした。
英熟語を一ヶ月やってみる計画も立てている。
できるだけ一日に英熟語を何遍も見ようと思っている。
現状では動詞に関心がある。
名詞も大事だがはじめのうちは動詞が知りたい。

プログラムの技術本は仕事の合間に読んでいる。
一日のうちで集中できる時間が限られている気がする。
だから、消化するには時間がかかりそうである。

何はともあれ、ぼちぼちとがんばりたい。

2009年6月29日(月) 落ちこぼれ


我が小学校は勉強に熱心でなかった。京都や神戸から落ちこぼれがやってきて
その落ちこぼれの人は我が小学校で普通にやっていた。
けれど我が小学校にも落ちこぼれがいた。

結局、いくら反復練習しても勉強のできない人が存在するのである。
そんな人が勉強するより人の役に立つ事を覚える方が大切な気がする。

ましてや私と落ちこぼれが一緒に勉強するなんて不可能に近いと私は思うのだが
先生は本気だった。生きてれば何かいろいろな人とバランスをとる必要あるけれど
いろいろな人に向かって勉強だけを取り上げても幸せになれないと私は思う。

勉強で人の幸せをはかるより
自分が実現した事に満足する社会の方が大事だと思う。
勉強しても何かが実現しなければ意味が無い。
何で世の中勉強にこだわるのか私には理解できない。

確かに自然やら世の中を理解しようと思えば勉強は大事だけど
勉強だけが目的なんてナンセンスだと私はそう思う。
どうして勉強だけが目的になるのか教えて欲しいほどである。

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

Akiary v.0.61