散歩みち
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2008年9月1日(月) 私とあなたのために
不自由のない生活がしたい。
そのために必要な中身が伴う生活がしたい。
ただ単にそれだけのために適当な奴が見つからない。
そう私には聞こえる。
結局そんな妄想は実現しない。
自分で切り開く力がなければ結果は同じだと私は思う。
自分の環境は自分のせいであって他人のせいではない。
いくら適当な奴を見つけたって同じである。
結果的にいずれ時間がたてば自分がおこなってきたような環境に落ち着く。
だから、どんな時も
やっぱり自分が精進を重ねる事を忘れてはいけない。
適当な相手が真剣に精進してると思えば十分なのではないかと思う。
みんな精進して生きているのだからお互い真剣に精進できれば幸せだと私は思う。
最終的に自分の精進が自分に返ってくる。
こういう合理的な考えが社会や世の中にはとっても重要なんです。
私のためにもあなたのためにも。
2008年9月3日(水) お互いの気持ちの共有
人の気持ちを無視して平行線な発言をしている迷惑な奴に
賢い子供がうまれて育つかしら。
私にはそう思えない。
私の苦労がわかって私の気持ちが共有できるか我が生活のために大事な要素の中で
勉強すればする程、勉強する奴ならある一定の気持ちの共有が簡単である事に気づく。
私は勉強なんてある程度出来ればそれで良いと思うし
そんな勉強してどうするんだろうと不思議に思う面もある。
けれど勉強が出来ない奴には何か気持ちの共有が難しく。
話をするだけで疲れてしまうのである。
要するに本人の話が到底受け入れがたいのである。
つまり私自身の常識が全く通用しないのである。
そもそもお互いの気持ちも共有出来ないなんて
お互いの生活は成立しない。
もしかしたら、ただ助けて欲しいだけかもしれない。
けれど私はお互いの気持ちも共有出来ないなんて絶対嫌だ。
2008年9月4日(木) 常識と非常識
ここまでくれば
後は自分自身の常識で考えるのみじゃあないかと思う。
非常識でチンプンカンプンな感覚をお持ちの方がいるようで
迷惑にも自分の幸せに関係のない事に終始して
そんな主張する暇があったら自分で何かした方がいいのではないかという
感覚が麻痺している。
話におぼれた非常識でチンプンカンプンに
悟りがひらけるのか私には理解できない。
常に我が感覚を研ぎ澄ましこの世界をなるべく正しく認識できるように
努力してきた私にとって非常識でチンプンカンプンなんて
自分や他人またはこの世界が何も信じられないように思える。
私の事だって信じたいけれど本当に信じられるのか確信していないのでは
ないかと思う。常に安心できない状態なのかもしれない。
それで救いはあるのか私自身お釈迦のように無責任な事はいえない。
どう考えても
私を信じろなんていえない。
自分自身のために自分の感覚を研ぎ澄ましこの世界をなるべく正しく認識しろ
とならいえる。
2008年9月4日(木) 賢い奴は冷たいか?
いくら本人が真面目に考えているといっても
ありえない見当違いな話をすればまたは、ありえない見当違いな事をすれば
賢い奴は誰だって冷たくなるんじゃあないのかと思う。
私の場合、真面目に言ってる事を考慮に入れ
相手にしない方が良いと極力注意する事を
頭にいれて黙っている。
それが優しいんでしょうか?
逆に怒って注意する方が優しいんじゃあないのか?
冷たく批判する方が優しいんじゃあないのか?
賢い奴が冷たいなんて賢い奴がどれだけ真剣に考えているのか知らないし
テレビなんか見ても世の中はわからないと思える程、
専門域の奥深さがわかってないから
そんなナンセンスな話が成り立つと思う。
私には結局
賢い奴は冷たいなんて世の中なめているとしか思えない。
2008年9月8日(月) 教師を理解出来ない所
理想に囲まれ過ぎて
自我が持てない生徒を見て教育がおかしいと思わない所が理解できない。
今ある環境下で現状を打破する行動力が必要なのに
理想に囲まれすぎて、自我を持てず、おとなしくしているなんて私には問題外だ。
あえて、いろいろな経験する行動力の方がよっぽど大切だと私は思うのに
おとなしくして世の中の何かが改善される気がしない。
悲しい事にそんな自我の持てない生徒ほど将来の可能性は感じないけど
賢い気がするだけにかわいそうな気さえする。
結局一人の人間が行動して経験を積み重ねるってどういう事か
教師自身が身を持って示した方がいいんじゃないかと思う。
2008年9月9日(火) 我が仕事と不安
アルバイトだが
SQL Server2005用いてSQL文を作成したり
Accessを用いてVBScriptのSQL文を作成したり
COMに関する本を用いてCOMのプログラムを作成したり、かつ
COMを操作するプログラムを作成したり
デザインパターンの本を参照したりする機会に恵まれ
自分の知識が経験になっていく所と
自分の知らない知識を知る機会に仕事のありがたみを感じる。
どうしても
自分の仕事が完了する事が我が最大の目標であるが
他に与えられた環境でいろいろな事をやってみる事が出来るので
仕事をして良かったなあと素直に感じる。
仕事が前進している気持ちになれるのもありがたい。
だけど将来への不安は我が仕事では解決しそうにない。
結局私はどうなっちゃうんでしょうねえ。
そんな不安が確かに私にはある。
2008年9月10日(水) バカとアホは恐くて冷たい。
自分中心で人の気持ちを考えられない。
自分の幸せさえ良ければそれで良し。
自分のやる事より他人のやる事が気になる。
やればやる程人に迷惑をかける。
説明できない自分の気持ちを何回も繰り返す。
自分の言いたい事を繰り返せばそれで良し。
自分の幸せのためなら他人に迷惑をかけても、あきらめられない。
迷惑だとしても、常にバカとアホがする事は
他人のやる事と自分の気持ちの表明と自分の幸せの主張が中心で構成され
他人に依存するしかないのに他人に迷惑かけるしか能力がない所
つまり、何をしてもトンチンカンな所が
やっぱりバカとアホは恐くて冷たい。
2008年9月18日(木) 当事者の科学
確かに第三者の科学は科学の知識に驚く事のほうが多いのかもしれない。
けれど当事者の科学とって見れば
考える対象に対してどのようなアプローチをとれば何がわかるのか問われている。
そこに科学の面白さの本当のエキスがあると私は思う。
どのように生活し、どのように思考すれば
誰も思いもつかない奇想天外なアプローチがとれるのか人間にとってこんなユニークな
愉快な話はそうざらにないのではないか私はそう考える。
2008年9月18日(木) どんな幸せを望んでいるかが大切
相手だけを評価するより
自分がどんな幸せを望んだ上で実現する相手なのかが大切なのではないだろうかと思う。
私にとっても相手にとっても同じだ。
面白い、好き、美しいを繰り返され、そんな言葉だけで幸せがやってくるように思えない。
結局全く幸せが実現する気がしない。
一体どんな幸せを望んでいるのか理解できない。
私にとっても相手にとっても
せめてどんな幸せなら大切にしたいと思えるのか考える必要があると思う。
2008年9月23日(火) 興味のあるものをガチャガチャしてみたい
データベースやUMLやオブジェクト指向のデザインパターンや英語などが
少しずつ進展している。
あんまり急いでも頭に入らない。
根気良くなんべんも繰り返して続けていきたい。
いつか何かに使える時がくればいいのにと思っている。
今までもこれからもずっとこんな調子で積み重ねてきた。
自分では面白いオモチャをいくつか考えたつもりだが
誰かに奪われた気がしている。もっとガチャガチャ遊べたような無念な思いもある。
今までのオモチャを奪われてこれから次のオモチャを作って
私がガチャガチャ遊べる保証はない。
今の所私の望むものは
私が興味のあるものをいろいろガチャガチャしてみたい。
そのために毎日の生活を繰り返しているつもりだ。
2008年9月25日(木) 心が豊かになる自分のために
世の中結果ばかりを厳しく求めて
肝心の心の豊かさが欠如しているのではないかそんな気がしてきた。
遠回りな苦労をする事を避けて多角的な発想が出来ず
結果のみを求めて自分勝手な主張で幸せになれるとも思えない。
要するに
自分の視点でしか考えられないで幸せになれる気がしない。
幸せには他人を尊重でき他人の幸せを共有できる心の豊かさが必要である。
他人を尊重できず他人の幸せを共有できないで
幸せになれるはずはないと私は思う。
私が望む事は
心が豊かになるようにしたい。
その結果
他人の幸せが私の幸せになり
私の幸せが他人の幸せになって他人を尊重したい。
心が豊かになる自分自身のためには
結果を求めるより、他人の果実より、自分の苦労を繰り返し
自分の果実を成熟させる事の方が大切であり、なおかつ効果絶大だと思う。
2008年9月29日(月) 私の本心
私の好きな人は
今頃幸せだろうか?
純粋な気持ちを大切に出来ているだろうか?
私の望むことは私より
好きな人が望む幸せが実現することである。
なぜなら私より純粋な幸せを知っている気がするからである。
そんな好きな人が幸せでいる。
世の中にこんな重要な事はない。
逆に善悪の判断できそうにないトンチンカンがどうなろうが
私は興味はない。
それが私の本心だ。