散歩みち
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2008年8月3日(日) 最近の課題
ヨーロッパやアメリカの歴史の本を読んでいたため
データベースの勉強ができていない。
仕事場でSQL文作って動かしているぐらいである。
他には英語版のSQLの本も読んではいる。
でも来年の春の試験とは範囲が少し違う。
あれこれ一緒にやろうとしているのが
無理があるのかもしれない。
ともあれ本腰を入れる時期にきている気がしている。
一歩一歩やっていきたい。
2008年8月4日(月) 悩んで苦しかった時「今と昔」
こんな時自分の口からは疲れるような話しか出来なかった。
周りに迷惑をかけたと思う。
今も精神的にも肉体的にも苦しくてそんな話しかできない時がある。
幸せって何なんだろう?
私のやる事なす事を考えれば
何でこんな苦しい状況におちいらなきゃいけないのだろう。
そんな救われない私を好きだという奴がいる。
何か良く理解できない。
うまく説明して欲しいよ。わかんないのよねぇ。トホホ。
2008年8月5日(火) 世の中の不思議
他人による教育を受けて自分で勉強せず大学に進学する奴。
他人による教育があてにならず大学進学するには自分で勉強するしか方法がない奴。
世間の悩みを聞かなきゃいけない私
世間の悩みに何も出来ない先生と呼ばれる人たち
いくつかの問題を解決したのに浮かばれない私
一般的な年金暮し
つまらない奴に好きと言われて何であんたに言われたくないのにと思っても
なぜか偉いらしい本人はスッキリした口調で言う事。
2008年8月7日(木) 自分の人生
自分に縁のあるものを考えられる人間は自分しかいない。
私に縁のないものは私は考える事はできない。
私の人生は私のもの。
私の人生は他人のものではない。
そういった意味ではみんな同じだ。
要するに自分の事は自分で考えるしかない。
だから自分に縁のないものを考えるほど机上の空論である。
結局何があっても自分で何とかやっていこうとする姿勢が大事だと思う。
私の事しか考えられないなんて論外だよ。
人間として最低。
もっと自分の人生を考えられる人になった方が良いですね。
あ〜あ。
2008年8月12日(火) スポーツの審判
高校時代私は何度か誤審した事がある。
良く観察して考えて審判していると悩んでしまって混乱して気が動転してしまった。
過ぎてしまって間違ったと後味悪い感覚が残った。
今でも思い出すと恥ずかしい。
オリンピック見てて何かそんな私の誤審を思い出した。
自分のする事ぐらい信じたい。
でも誤審の事を思い出すと少し不安にもなる。
けれど今の仕事では今のところ自分を信じて仕事ができている。
過去がどうであれ
自分が信じられるように積み重ねていくしかないのかもしれない。
2008年8月13日(水) 棚上げする自分のために
これまで私の人生の中で頻繁に物事を棚上げしてきた。
何も最初から一から百まで挑戦したわけではない。
私自身今までも今も私が出来る最善を心がけているものの
どうしようもない事だってあったのである。
あんまり、すべて完璧にやろうとまでは
考えていない。息をぬく所は息をぬいて適度なバランスを求めてきた。
棚上げした事を他人が解決しようが自分が解決しようが
特に意味はない。みんなが解決したという意味でみんな同じである。
だから結局、自分自身の人生のためには
完璧よりも棚上げした中でどのように生きていくかが大事である。
2008年8月17日(日) 三島大社のお祭り
15,16,17日に大社のお祭りがあった。
昨日と今日にかけていくつか動画を撮影した。
少しでもお祭り気分を伝えられれば幸いである。
2008年8月18日(月) 我が人生
過去も今も苦しいながらも真剣に生きてきた。
だけど、なかなか他人には、うまく伝えるのは難しいのかもしれない。
小手先の振る舞いでその場をしのげるような生き方はしていない。
だから真剣に付き合わない人とは真剣に考える気がしない。
また、真剣に物事を考えて取り組んでいる話が好きである。
すごく当たり前な事だと私は思ってたのだが
どうも世間はそのようでは、なさそうな所がおそろしいなあと
感じている。
2008年8月19日(火) いろいろな人
通勤時、いろいろな人に会う。
容姿のみを考えた場合美しい美しくない、どちらでも
私としては平静でジッと見つめていられる人なら
他人と私において問題ないと思う。
後は他人と私において
どれだけ真剣に物事を共に考えて行動できるかが問題のように思う。
話をすれば相手がどれだけ真剣に考えているかがわかる。
だからこそ真剣に考えている話は私にとって興味深く面白いのである。
2008年8月20日(水) 私の世界の中
私の世界の中で他人の気持ちが表明される。
明らかに私の世界の中では
他人の気持ちより私の事を考える方が大切である。
明らかに私の世界では
他人の幸せより私の幸せの方が大切である。
何で私の世界で私の事や幸せを考えさせないのか
明らかに不自然で無神経でイカレテル。
こんな事が許される法治国家が信じられない。
人の体を操作するなんて何でもアリのような恐ろしさだ。
現実感覚のないイカレテル奴に何を教えても無駄だと
私の人生において明らかである。
まともに話なんて通じない。お手上げである。
2008年8月21日(木) 私の身に起こる事
誰も私の身に起こる事を信じてもらえない。
肩身の狭い身分である。それだけに世の中は罪深い。
他人の問題のために、そういう自分の環境を許しているわけだから
私を苦しめている事にもっと罪悪感を感じてもらいたい。
自分の受けてきた苦痛を許せる気にならない。
身の回りに私の受けてきた苦痛と同じだとハッキリしたら
我が心はつらく考えるだけで耐えられず発狂しそうだ。
だから悲しいかな
いつまでも我が怒りは静まりそうにない。
だからといってこんなひどい事をして誰も私の怒りを聞く人もいない。
せめて私が大声で叫ぶ事やホームページで文句をつける事ぐらい
許してもらいたい。
2008年8月22日(金) 自分で決断する事
どんな時も
「自分の力で自分自身の努力を積み重ねて証明するか、あきらめるか」問われている。
他人は人の人生を決める事が出来ないから自分の人生は自分で決めるしかない。
自分自身の努力を証明するか、あきらめるか自分で決められないで
他人の話をした所でバカバカしいだけだ。
自分自身で自分の努力を証明もせず、あきらめもせず中途半端な対応しかしないから
他人も私も対応できないで苦しんでいる。
本当にこんな迷惑な話はない。自分の人生は自分で決めてください。
どんな時も
「自分の力で自分自身の努力を積み重ねて証明するか、あきらめるか」問われている。
私自身どうしようもなく何度もあきらめてる。
自分がすべき事としてまたは自分のために、
どうしても無理ならば何度もあきらめた方が肝心である。
2008年8月26日(火) 我が体重への関心
自分自身体重が重い故に自分の体重に対する関心が高い。
私より体重のある体の大きい人を見ると
ああゆう風になりたくないと自分の体重が気になる。
その一方で自分が体重を気にしなくては
今の体重を維持出来ない状態である事はまぎれもなく現実である。
テレビで大食いなんてやっているけど
世の中にはうらやましい人がいるもんだと感心するが
私にとって体重のある体の大きい人と代わりばえしない無神経な人にみえるのは
私には食事に関して少しでも神経を使っているからであろう。
いずれにしても適度な神経の使い方を我が人生に求めていきたいし
他人と適度な神経を使える共同生活がしたいと今後も願っている。
2008年8月27日(水) 私自身が満足する事
我が親は他人の評価より自分が満足するように生きろと言う。
自分の満足するように生きたって自分勝手で自尊心が高く
世間から見て自己中心主義でどうしようもない。
やっぱり他人が評価しなければ人間生きていけない。
自分自身のする事が客観的にこの世界とどう関係しているか明確にする必要がある。
自分の頭の中だけでなく
そうやっていろいろな他人と意思疎通を繰り返してこそ
この世界と世の中のために自分のする事が明確になると私は思う。
結局自分のみ満足しても悟りとは思えない。
この世界と世の中のために他人といろいろなものを共有できる人間こそ
悟りだと私はそう思う。
2008年8月28日(木) 私の環境
どうすれば穏やかな温かい気持ちで生活できるのか最近良く考える。
どうしても、つらい苦しい気持ちが口に出る。
私は気づかないのだが親に言わせると何回も同じ事を言っているらしい。
その点で私の環境はあまり良くない。
私のフェニックスの具合からすると
最近になって仏陀やキリストより自分の環境が悪くて苦しいものではないかと
考える始末である。
穏やかで温かな会話が成立するには自分の環境を改善するしかないように思うが
私の発言があやしい以上にあやしいことを私にしている奴が改めなければ
穏やかで温かになれる私の幸せは一生訪れないと切羽詰った危機感を感じ
落ち着かない不安な日々が続いている。
2008年8月29日(金) 整理して発言すべし
思いつきで随時言われると
集中力が途切れて自分自身で考える気力が薄れる。
もうちょっと自分の考えを整理して話が出来るようにした方が
良いのではないかと思う。
結局口うるさく言うより、関連のある良い機会を考えて相手の気持ちになって
どのように考え行動すべきか
整理してまとめて言う方が相手だって物事をいろいろ考えられ工夫できる。
相手の方には物事を考える集中力と考える時間が大切だと私自身そう思う。