散歩みち

バックナンバー

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

2011年4月1日(金) 主張と権力の概観



最近、幻聴で思うんだけど
心豊かな人が権力を持つべきな気がした。
心の貧弱な人が主張してもくだらない。
千夜一夜物語みたいに王子様の心がいえるような話が出来ない人が主張しても
物事は豊かにさえならないしトラブルしか起こらない。
なかみの無い話はうんざりである。

2011年4月1日(金) 近況



OCamlの本はなかなか難しかった。
再帰のバリエーションが多彩に書かれてあったのが印象的であった。
オブジェクト指向の所は今後変更になるかもしれないと書かれてあったので
必要最低限やりたかった関数型言語の雰囲気だけは感じられた。

他にも
JavaとC#の本を消化中
その合間に小説も読んでいるけど
なかなか進まない。
気長にやりたい。

2011年4月1日(金) 人を大事にしよう!!



何か人をもっと大事に使う方法があるのではないかとそう思う。
いらない労力をかけ過ぎている。
もっと良い方法があるように思う。
日頃からゆったりあれこれ考えていれば済むものを
ある時、極限状態で考えさせても後の祭りである。
人がまっとうに考えられるスピードってあるように思う。
ある人は早過ぎるしある人はなさ過ぎる。要するに両極端なのである。
ゆっくりああでもないこうでもないと考えれば良案は浮かぶもののような気がする。
日本全体がゆっくり考える思考が足りないそんな気がする。
もう少し日頃からゆっくり考える癖をつけた方がいい気がする。

2011年4月2日(土) 近況



ドイツ語の学習テキストを開いて少し進めた。
何となく邪魔されずアナログもいいかなと思っている。

私を操り人形にして状況がうまくいなかないから
何となくこちらが指導したくなると言ったら
父親は皆そう思っていると言われた。
私はそうしたらどうしたら良いか聞いたら
他の楽しみを見つけろと言われた。

なんかまた「冗談でしょうファイマン先生」のパロディをやれというのである。
私はこりごりである。
私が楽しんでも段々面白くなくなっていく。
楽しめなくなってストレスを感じるからである。

とことんアナログで地下にもぐるしかなさそうな雰囲気である。

2011年4月2日(土) 葛城山に登る



母親と葛城山を登り降りした。
予定では帰りはロープウェイで帰る予定だったが
強風のため運行してなかった。
仕方なく歩いて下山した。

ムチャクチャ疲れた。
ともかくケガもなく帰れて良かった。

それぐらい急激な坂だった。

2011年4月3日(日) 今期の計画



何だか時間がたつうちに
プログラミングの計画がどうでもいい感じがしてきた。
英語とドイツ語の学習と小説の読書が最近の状況である。

Javaの本も途中まで読んでいるけど
何か少し意欲が停滞気味である。

また少し時間がたったら
Javaの本を読みたくなるかもしれない。

今期の計画は
なかなか難航している。
今期中に何か作ったものを残したいなあと思っている。

例えば
ドイツ語の作文とかであるが
どこまでドイツ語を学習出来るかわからないので
何とも言えない状況である。

2011年4月4日(月) どうにもならない状況



何でこんなに他人から迷惑を受けなくてはいけないのかわからない。
すべて無かった事にしないと解決しないらしい。
なんてこの世は愛が足らないのだろう。

何で自分のやった事を無視しなければいけないのか
理解出来ない。

結果も出ているのに
何か努力のむくわれない世の中も変である。

そんなんで真面目に生きていける世の中なのか不思議でいっぱいである。
私はどうにでもなるのに他人のせいでどうにもならないなんて
ナンセンスである。

もう少し自分一人で何とかするぐらいの根性無くて
幸せになれない気がする。


私の世界は何も問題ないのであるからそういう風に生活させて欲しい。

2011年4月5日(火) 近況



沼津の若山牧水記念館に行ってきた。
短歌とかやる人ってどうして生活苦しいでしょう。
幸い私は食べていけるけど
それで良しとしなければいけないのでしょうか?

牧水の旅行は決して牧水が望む旅行で無かったらしいという事はわかった。
若山牧水の本心が知りたいと思って生涯をつづった本を購入した。

我が人生は
経済的問題だらけだから真面目に考えると矛盾を感じてしまう。
あんまり他人と話をし過ぎるとそれをもろに感じてしまう。
我が人生に採算がとれないのである。

あまりにも過去を棚上げし過ぎている。
それで過去を忘れろと言われても酷である。
むちゃくちゃである。
せめてそれなりの清算は必要である。

私の話が可能性を感じるならば
私のせいであってあなたのせいでない。
あなたのせいで可能性を追求しなければ
いくら私でも可能性に手が無くなり可能性は枯渇する。
可能性と可能性の融合こそ可能性である。

2011年4月6日(水) 無駄な主張と権利



何か無駄な主張と権利与えても
話がややこしくなって収集つかなくなる気がする。

もっと論理立てて会話が出来なければ
物事は進展しない。

プログラミングにも同じ事が言える気がする。
何か細かい事に注意が持てないと仕事が収集つかなくなる。
繊細な作業だから当然と言えば当然である。

ひっちゃかめっちゃかに言ってれば済む問題ならわかるけど
そんな分野は私は知らない。
どの分野も専門知識が必要だしそれをふまえた会話も必要である。

ただ一ついい加減な事言ってる報道だけである。
政治家とか記者とかコメンテーターぐらいで
無駄な主張と権利を与えれば十分な気がする。

話が成り立たないようにするならわかるけど
話を成り立たせるには無駄な主張と権利が必要な気がしない。
せめて論理的に話せないと話は成り立たない。
結局うやむやになって収集つかなくなる。

そう言う意味では今の日本の状態で十分な気がする。
それ以上話をややこしくする必要無い気がする。


//追記
ただ私は秀吉のような人は必要だと思っている。
それには自らを学問に投じる勇気が必要である。
自らの成長無くしてたくさんの秀吉は生まれない。

2011年4月6日(水) 近況



頭と体を使う事に専念している。
今日もコンビニと家の間を往復歩いた。
家は山の中腹にあるので坂を登り降りした。
ドイツ語の勉強と英語のヒアリングと小説の読書とJavaの本による読書を並行している。
どれも長続きしないので疲れたら違う事をする事にしている。

日差しは強くなってきているが風は少し冷たい。
桜もちらほら咲き出している。
春はやってきた気分である。


2011年4月7日(木) 原発について_テイク2



何かサイエンスの歴史的背景から原発を
いろいろ述べる人がいるみたいだけど
サイエンスこそインターナショナルの産物だし
サイエンスに日本人も立派に参加してるので
なんだか私には本筋のように思えない。
世界には核戦争とかいろいろな想定を考えている人がいるわけで
直ちに日本の原発技術が未熟というわけでは無い気がする。
今回の地震で世界が動いているのだから
日本の特殊な事情でもない。

当然、今後ありえるケースとして見られている。
だからそんなにお粗末ではない気がする。
原子核反応を少し知っている程度で
私もそんなに原発に詳しくないが
あんまりいろいろ述べても具体論までは述べられない。
要するに私の話さえ具体論ではないから
全体的な論評を言った所で具体的な話とそれているかもしれない。

あんまり原発について悲観する事無い。
インターナショナルなサイエンスと同じように
原発も国際的に処理したらいい。
なんでもかんでも日本人でやろうとする必要無い。
国際的に日本人も活躍しているように
日本でも外国人が活躍したっていい。それがインターナショナルだと思う。
何か日本だけで閉じてしまう所が日本人の情けない所だと思う。

2011年4月7日(木) 短歌に恋は必要か?



若山牧水の本を半分程度読んでいます。
牧水も恋を短歌にしているみたい。
短歌でもやっぱ恋は永遠のテーマかしら。

後半はどうなるかわからんけど
ある人を大事にしたい気持ちは大事にしたいなあと思っています。
だってそれこそ調和と平和が訪れる気がするからです。

2011年4月8日(金) 欲望と神や仏



神や仏を信じ神や仏に誓う機会あれば
欲望が抑制される。
お金になるという暴走でさえ
神や仏の存在を信ずれば抑制される。

神や仏の前では
自分の正義を誓い
自分勝手な行動や発言が抑制される。

そういう神や仏を日本人は有していると思う。

2011年4月9日(土) 若山牧水の本



若山牧水が沼津にいる時はもうメジャーだったらしい。
沼津の千本に借家に住んでたけど土地と家を建てるために借金して
そのために亡くなるまで揮毫旅行したらしい。

牧水の旅行が魅力的なのもまんざらでないらしい。
牧水の初期の短歌も感情的な牧水の気持ちがあらわれているらしい。

牧水の短歌を少し読んで私ももう少し自分の感情を短歌にたたきこんでもいい気がした。
普遍的でもありリアルでもあり感情的でもある。そんな短歌を目指せばいい気がした。

2011年4月10日(日) 近況



相変わらず
ドイツ語と小説とJavaの本を読んでいる。
時々英語のヒアリングをしている。

今期の何となく考えている計画は
ドイツ語の作文である。

今日は選挙に行って
コンビニまで往復歩いた。文藝春秋買って少し読んだ。

なるべく頭と体を使う生活がしたいと思っている。

2011年4月13日(水) 我が俗世間の身



世の中の自分の位置を考えたら
ありふれた日常から出来る事を考えるのみである。
限られた情報しか入ってこないのだから
当たり前である。

見当違いの事やって我が時間が取り返しのつかない状況になりたくないのであるから
あんまり深い考察は出来ない。
そのかわり
責任が無い分
いろいろ自由度はあるんじゃあないかと考えている。

それが私にとっていい事なのか悪い事なのかわからない。
あんまり恵まれた人間では無い事だけは言える。
俗世間で成功した人物はアインシュタインという天才のみだと聞いているからだ。
私がそんな事が出来ているのか私には理解出来ないが
綱渡りのような事をしているのは言える。

世の中が私をそのような俗世間で生きろと強いている。
正解は天才しか出来ない上に外れてもともとだから私は自由に勝手な事を述べて気をまぎらわしている。
私の人生はサーカスのような人生である。
私のホームページ見たらみんなそう思うでしょう。
すべて我が身に起こる負の遺産のためである。
どこもどいつも軟弱だと知るでしょう。

ちなみに
プログラミングの仕事はあんまりやる気でないです。
大学で習った頃はexeを作るためコンパイルエラーの連続でした。
人間の入力したプログラムはやはりどっかバグがあってプログラムツールはちゃんと正確に指摘するのでした。
それを乗り越える繊細さが必要なのです。
間違えている所を見つける繊細さです。
なのに家で土足で入られるような乱暴な振る舞いに
積み木を崩されるような絶望を味わいました。
もうパソコンは信用出来ません。プログラムを修正する繊細さが失ってしまいました。
仕事の事を考えると胃がキリキリします。

緻密に仕事をすればするほど裏切られると絶望してしまいます。
福島の原発の方もひょっとすると同じ気持ちかもしれません。

物事はそんなに簡単ではありません。
そんな事をみんなで共有する必要がある気がします。
電気を使う事は簡単です。でも裏では涙ぐましい努力がある事を理解してもいいのではないでしょうか?

私は蚊帳の外ですから
どうでもいいのですけど
もしかのためにいろいろ本を消化している所です。
自分でもなんでこんな本を読んでいるのかわかりません。
ただ目的も無く手段と方法だけは得ておこうと考えています。
目的はやがて形をかえ姿をかえやってくるそんな気がしてます。

2011年4月15日(金) 奴隷のような身分



何か操り人形のような奴隷みたいな気分である。
時にはモルモットのような気分にもなる。
何も信じるものなんて無い。
自分が思った事さえ自分が思ったとは判断出来ない。
もしかしたら催眠術かもしれないからだ。

何か世の中最悪である。
仕事では動いていた自分の作ったコードが突然動かなくなったり
パソコンで監視されている気になったり
何かパソコンが意図していない振る舞いをして
もう繊細にやってた仕事が嫌になった。

一体私は何を信じたらいいのでしょう?
人間どもなんて信じられない。

私の扱い方がひど過ぎる。
私を人間だと思ってない気がする。
人権問題だ。
日本は本当に法治国家なんでしょうか?不思議でしょうがない。
なんで私の権利を主張出来ないのでしょうか?
私はもうすでにいろいろな主張が出来るはずです。
なんで他人の主張ばかり反映されるのか理解出来ないです。

毎日四六時中わけわからん状態でいる。
わけわからん奴なんてわけわからんでいいよ。
理解したいとも思わない。

2011年4月15日(金) 近況



薬を元に戻したせいで午前中いっぱいまで寝ている。
今日も部屋を明るくして起きていようとしたが無理だった。

十一時頃から一時間ほどドイツ語をやっている。
昼飯食って散歩をして
小説とJavaの本を読むような事を繰り返している。

薬に慣れるのに時間がかかりそうである。
もう薬を飲むの止めたいそう思うのだが誰も賛成してくれない。
周りは敵ばかり信じるもの無し無責任極まり無し

薬のせいで体重は増えるばかり

2011年4月17日(日) 近況と温室



なかなか頭がスッキリしない。
なんかダルイのである。
元に戻した薬の影響がありそうである。

トマトのように子供が
私自身は温室育ちのぬくぬく育ちでも良いと思っているが
なんか過酷な私の状況がそう思わせているかもしれない。
つまり私の状況があんまり温室でないという事のような気がしている。

だけど温室で育っても勉強のような冒険しようと思う心は芽生えると私は思うのだが
何か私は間違っているかしら?
日頃の努力って温室で育つような気がするんだけど
そらあ一時的な力は温室育ちでは無理かもしれない。
でもいくら何でもいつも一時的な力が必要とは限らない気がするんです。

そう思いませんか?
一時だけ良くてもしょうがないでしょう?
温室育ちだっていろいろ状況に対応出来ると思うし
長続きしてこそ温室育ちの良さが出る気がするんです。
私は将来性とか含めてそういう持続しそうな仕事がしたい。

だけど今の所私の状況は過酷である。
温室には程遠いのである。

2011年4月19日(火) 悟りと我が状態



今週の日曜日ぐらいから
状態が悪い。

何か落ち着かない。
悟りとは程遠い状態である。
いつになったら私は落ち着いた生活が出来るのだろう?
仏や神に願った所で解決しない。

落ち着かないからJavaや小説やドイツ語の本に向かっている。
みんなはどう思うか?わからないけど
落ち着かない私は不幸なんでしょうか?幸福なんでしょうか?
そんな事を考える私が嫌になる。

ドイツ語は文法の本を一通り読んだけど
もう一冊のテキストはチョット休憩している。
2冊のテキストを繰り返し読む予定でいる。
しばらく身になるまで時間がかかりそうである。

Javaの本はあらためて発見する事もあって楽しく読んでいる。
小説はアメリカの警察が犯罪を起こすハッカーを捕まえるサスペンスものを読んでいる。


私自身が嫌になる心が救われる
千夜一夜物語みたいな私バージョンの話が聞きたい。
何か無理な相談なのかしら。どうなんでしょう?

なかなか自分を肯定するって難しいと思うけれど
愛するもののためなら自分を肯定出来る気がするのは
私が軟弱だからでしょうか?
私は一人だけで自分を肯定する人を
どうしても信じる事ができません。
将来ある子供のため、愛する妻のために生きているのなら
私は多いに理解出来るのですが
自分のためだけに生きる理由が私には乏しいのです。
それにあんまり自分のために生きたって面白くないと思っています。
私は素直に直球で生きたいし、自分の気持ちにまっすぐになりたいし、
そのために人のため世のため愛するもののため生きれたらいいと思ってます。

だけど私にはそういった状況に程遠いです。
私の努力不足なんでしょうか?私には理解出来ないです。
なんだか焦燥感にとらわれているような嫌なこの頃です。

2011年4月21日(木) 普通



今日はドイツ語で作文を作った。
最初のうちは間違っているかもしれないけど
頑張ってみる予定である。

私が素直にまっすぐ生きたいのは
私の体と精神があらゆる困難に耐えられないから。
不必要な感情を持たず
必ずまっすぐ生きれる方向があるはずだと思っている。
私を肯定したいものが世のため人のため愛するもののためなのは
一人だけで生きても面白くないから。
私の体と精神と私が肯定するものが
共有出来るコミュニケーションこそが私が願うものである。

真剣に集中出来るものごとの本道とコミュニケーションによる気持ちの共有さえあれば
なるように普通に生きていけるそう思っている。


しばらく睡眠時間が長くなったおかげで
調子が少し上向いてきた。
ストレスを感じている分睡眠時間も必要かもしれない。

2011年4月22日(金) 近況



今日は診察日だった。
桜が散ってから外に出てないと言ったら
体を動かした方がいいと言われた。

なんだか寝不足なのか体力不足なのかよくわからない。
けれど体を動かした方がいいらしい。
ホームセンターで母親に内緒で野球ボールが手元に返ってくるセットを購入した。

今日は久しぶりに良く歩いた。
砂場という所で昼食後、戸田書店まで歩いてその後家まで歩いた。

まあ毎日自分のやる事に楽しみな事があれば文句は無い。
幸いな事に本屋や百円ショップやホームセンターのもので十分楽しめる。

私の仕事はもしかしてエンジョイする事なのかもしれない。
誰もそう言ってくれないけれど
真剣に考えたらバカバカしい事だけは真実である。

2011年4月25日(月) 近況2



今日は三島駅近くの文教町にある滝を見に上岩崎公園付近まで散策した。
左投げ克服にボールを使って矯正中。
サッカーのフェイントを小学生時代を思い出して訓練中。

そんなこんなで背筋が筋肉痛である。

ここのところは「英語リスニングのお医者さん」の本を少しずつやっている。
TOEICのリスニングだけでは限界を感じているため
少し寄り道的な感じでやっている。
小説も2、3日で終わりそうである。
Javaの本は発見もあって少しずつやって楽しんでいる。
ドイツ語はチョット休憩しているが作文で気分転換中である。
だけど一冊の本を使ってドイツ語の文章を読む機会を作る計画中である。

今日も短歌を2首作成した。
明日掲示板に書き込む。

私自身あんまり集中力無いから
こんな感じがベストである。
一日集中するほど気力が続かない。
いろいろ短時間に進めるしか一日の有効活用が思いつかない。

そう言う意味では仕事には無駄が多過ぎる気がする。
四六時中仕事なんて出来るのか不思議である。
つまりいろいろやらしてくれない。
こういう生活もありな気がする。


2011年4月26日(火) 一寸先は闇



家も東海地震の範囲内だから
将来はどうなるかわからない。
父親によると家の周りは震度6.5ぐらいがやってくるらしい。

神は何考えているのかわからない。
一寸先は闇である。
未来の事なんて誰もわからない。
不安だけどその分、自分の出来る事をしようと思える気がする。

そう言う意味では常時、不安とのたたかいである。

2011年4月28日(木) サイトの更新_part3



今週、読んだ本を書評に書いた。
Needing wordsの数学の本を読む科学の本を読むを更新した。

他にも何かいろいろ面白い数学の本とか科学の本とか読んだけど
とりあえず後ろを見ずに前に進む事を考えたい。

「英語リスニングのお医者さん」を続けているけど結構難しいヒアリングを強いられている。
ドイツ語は停止中で気分転換が必要なようである。作文と読書がドイツ語の課題である。
そのための対策を今日まで進めた。本から知識を吸収するため明日からエンジンをかけたい。
小説は昨日図書館で本を借りてきた。
Javaの本は今も引き続き楽しく読んでいる。


プログラミングのページを作った。
あんまり詳しく説明するのは大変だから
Needing words形式でリストアップにとどめた。
消化するには時間が必要な気がする。
日頃のおこないが影響する。

2011年4月29日(金) 我が仕事



今までの仕事をしていても我が生活に将来設計が出来ない。
それなのに続ける意味あるかわからない。
私の方にメリットが無い。

会社のパソコンの動作も信じられない。

なんでこんな悪環境の中で仕事を続ける必要があるのか
私には理解出来ない。
あまりにひど過ぎる。

それなのに周りは戻った方がいいと言う。
電磁波のストレス問題もあるのになんで
こんな困難な環境に追い込まれなきゃいけないのかわからない。
みんな無責任である。

なんでこんな状況を作る必要があるのか理解出来ない。
私は穏やかな気持ちで生活したい。

日本人の最悪な所は最悪な状況を作り出す事なんじゃあないか?
どうしたらお互い過ごしやすい日本になるのか真剣に議論した方がいい。

なんで火の車で生活しなければいけないのか理解出来ない。

2011年4月30日(土) 権力と学歴



権力の無い私にとってしがみつくものなんて無い。
だから自由に語れる。自由に行動出来る。

だけどしがみついて生きているものは
権力に束縛されている。勝手な事は許されない。
勝手な事をしない限り生きていける。

だけど私は何をしたって同じ状態である。
そんな私にとって出来る事は
私以外は「みんな似たり寄ったり」だという事である。
権力を持たないものは「自力で身の保身を守ろう」とする。
権力を持つものは「しがみついて身の保身を守る」だから同じである。

私はうんざりである。
権力持っても持たなくても大した事できないのだから
もう身の保身のために振り回されるのは御免である。

似たり寄ったりなのだから、もういい加減
人間が生産的な活動が出来るために生きるべきだと思う。
今の権力構造は身の保身のためにしか機能していない。


[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

Akiary v.0.61