散歩みち

バックナンバー

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

2009年5月2日(土) やってみる事と考えてみる事の反復


人間はやってみない事にはわからない事もある。
一方で考えてみる事でやる事の敷居が低くなる事がある。
だから、やってみる事と考えてみる事を反復する必要がある。
これは科学の理論と実験に近いと私は考えている。
だから私自身やってみる事と考えてみる事の反復を経験する事は
科学においても有用だと私は思う。

仮に自分自身が考えるだけであったり、やるだけであったりするならば
自分だけではどうにもならない。周りが大切なのである。
周りを含めて考えてみる事とやってみる事ができているのか状況把握すべきである。
片方だけで自己主張しても成り立たないのである。
つまり両方しないと成果がでない。
何かが出来るようになるには、
やってみる事と考えてみる事のバランス感覚が必要であると思う。

2009年5月2日(土) 大事にしたい人


この世に本当に大事にしたい人がいるかいないかは重要な要素だと思う。
私の場合この人の心を大事にしたいと思った事がある。
そういう機会が世の中に存在したら
他人を少しでも尊重できるのではないかそう思う。

だから、この世に大事にしたい人を見つけられたら
人間の人生として大成功だと本気で思う。

たとえ自分の子供でも孫でも同じ事だと思う。
さらに大事にしたいそういう気持ちが多くの人に持てたら
なおさら多く人を大事にする自分の行動とともに
自分の人生を肯定できる。そう私は思うのである。

2009年5月10日(日) 我が半生


私の子供時代、私は親父のようにサラリーマンになれれば良いと思っていた。
科学者になろうとか医者になろうとか弁護士になろうとか思わなかった。
自分のやる事をやって人生を謳歌できれば良いと思っていた。
自分にとって自分の人生を謳歌する夢を持ちたいと子供ながらそう漠然と思っていた。

大学まで自分にとって物理、宇宙と興味はそっちの方に進んだが
宇宙物理そのものが幻聴と重なり
現実との境界がはっきりしなくなった激しい苦痛とともに
競争激しい大学に残っても人生を謳歌できる気がしなかった。

そして大学を去ってから10年ぐらいたって今に(2009/05/10)至る。
大学にいるより苦痛は少ないが今でも今まで自分のやった事って何かしらと悩む。
そして今まで自分が苦しんだ大部分は
自分の生活環境が悪かったためじゃあないかと思ったりする。
もしかしたら悩んだ分いろいろな事を考えられたのかもしれない。

それでも今の関心は子供の頃と同じ
人生を謳歌する夢をいくつか持ちたいである。

2009年5月14日(木) 工場生活


大仁にある東芝テックの工場に勤務している。
おかげでなぜなのか私は工場勤務が好きである。

技術情報もあって時間をかけて経験を積んでいると思う。
結局、自分の出来る事しか出来ないわけだから
出来る事を着実にやっていこうと思う。

利益がでていろいろな意味で社会の役に立てて給料をもらう。
そんな当たり前の機会を継続する事が私の役割だと思っている。
工場の勤務が私にとっても、会社にとっても、社会にとっても
良い安定したシステムなんだなと感じている毎日である。

もしかしたら工場の勤務で社会の一員のような感覚が持ててるのかもしれない。

2009年5月17日(日) 科学と私


ここ十年(2009/05/17)科学とは何か考える事が
唯一科学について私の出来る事だったような気がする。

科学の局所的な部分がおかしいと思いつつ逆に科学って何だろうと思いめぐらした。
図書館で本を借りて科学の一般書やらヨーロッパの歴史書やらアメリカの歴史書やら
ルネサンスに影響した地中海の歴史書やら読んだ。

本当は人生の順序としては逆だったかもしれない。
だけど私の学校教育には存在しない知識だった。
結果的に私に勇気と希望を与えてくれた。
だから多くの人が科学とは何かを発見して
人々の活動において将来に勇気と希望が持てる事を願っている。

2009年5月19日(火) 遊び心もって、ころがして大きくする


人生をやり直したいという人も私の人生の中で遭遇した。
そういう過去の振り返りしかできないなら
現時点で前向きに生きれないのではないかと私は思う。

現時点で必要な事は遊び心もって、ころがして大きくする事である。
限られた自分出来る事から
いかにころがして大きくできるのかそういう発想が大事である。

いくらか過去の経歴があれば自分の人生が違うじゃあないのか
思いたくなるのもわからなくはないが
例え人間がどんなに恵まれた環境にいても
結局、現在と似たような問題に直面すると思う。

だとしたら自分自身が今現時点から物事を進めるために
いかに遊び心あふれるものをころがして大きく出来るのか考えた方が
私には得策だと思えるのです。

2009年5月27日(水) お互いに良い影響のある関係


誰に対しても、お互い良い影響のある関係でいたい。
そう思うのだが、なかなかそういう世の中には程遠い。
自分の主張をしなければ生きていけない。そういう世の中に私には見える。
職場では自分の主張より職務を遂行する事に重点を置いている。
だから自分の主張をしなくて良い環境に感謝している。

けれど仕事以外の自分のストレスはホームページで主張しなければ
自分の苦労が水の泡になってしまいそうで
最終手段である。自分の行動より自分の主張しか手段がなくなったら
良い世の中と言えるだろうか私には末期的に見える。

私の人生の中で自分の小学校が悪く見えるのに他人は良く見える現象もあった。
そんな現象が起こっているのだろうかお互い良い影響があれば
主張なんてしなくてすむ。なぜなら当たり前な事が共有されているからだと思う。
そうすれば当たり前な事を模索するだけで話は解決する。

けれど世の中に当たり前な事がたくさんあるように見えない。
結局、他人の主張を聞くのも疲れるが
私が主張し続けるのも疲れるのである。

2009年5月29日(金) 建設的な言動と行動


私の半生は建設的な言動と行動が伴っていないのだろうか?
どうして非建設的な話が私に聞こえるのか理解できない。
階段をのぼるように日々努力しているつもりである。
その方が私の生活上で楽しいと思えるからである。
なのに毎日非建設的なつまらない話を聞いている。
そんな努力もせずに幸せで楽しいと思える日がくるだろうか?
そんな事は私にはありえないと私の人生の中で確信しているのに
やはり非建設的な話が聞こえるのである。

私は極めて建設的な言動と行動をともにして数々の奇跡を起こしたはずである。
その私は非建設的な言動と行動には全く興味なんて持てない。
非建設的な言動と行動はつまらないし、どうでもいいだけだ。
特に話の内容が私と何かが出来そうも無い奴の「好き」なんて
これ以上の非建設的な言動と行動はないと私は思う。

2009年5月29日(金) 大天使ミカエルと女神


この目標が私の人生の目指す勢いである。
将来の純粋な女神になれるように私自身が相互努力に努め、
私がメルヘンのピヨ吉になって
純粋な気持ちで私が、がんばれる将来の女神を求めている。

つまり建設的なこの純粋な気持ちをどれだけ高められれるかが私の関心事なのである。

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

Akiary v.0.61